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ポスターに見る世界の女たち

 世界の女性政策を研究している三井マリ子さんが足で集めたポスターを、三井さんの解説をまじえて紹介します。ポスターは、どれも、それぞれの国で、女性解放運動や男女平等推進の広報に使われたものです。ポスターが貼られた当時、世界の女たちが何に怒り、何を求めていたかを感じ取ることができます。

「 I 女のしんぶん」毎月10日号に掲載中です。
画像・解説の無断転載を禁じます。活用される場合はご連絡ください。



反トランプ480万人のデモ

(アメリカ)


 ドナルド・トランプの下劣な言動には、私も虫唾が走った。
 公的健康保険の廃止、妊娠中絶反対、メキシコとの国境に壁、銃規制緩和、テロ容疑者への拷問容認…集会で障害を持つニューヨークタイムズ記者の物まねをしてあざけった。「メキシコ人はレイプ犯。麻薬や犯罪を持ちこむ」と決めつけた。「イスラム教徒は完全に入国禁止」と宣言した。辛辣な質問をした女性ジャーナリストを「彼女のどこからであれ、血が出ていた」とからかった。
 彼が友人に「スターなら、女に何でもできる。女性器をつかんだり、な」と告げる言葉がワシントンポストに公表された。

 1月21日、トランプに反対するデモ「女たちのワシントン行進」がアメリカの首都であった。ワシントンで60万人、全米で460万人、世界で480万人。ベトナム反戦デモ以来最大規模と報道された。ワシントンの写真は、ピンクのニット帽をかぶる人たちでいっぱいだった。トランプの「女性器をつかめ」に言葉を失った参加者たちは、子猫の形のニット帽をかぶって参加したのだ(実は、女性器Pussyには子猫の意味もある)。
 ポスターには、「女性の権利は人権である」と書かれているが、動詞ARE(=である)がピンクの毛糸で描かれ、それで編んだニット帽が2つ見える。これがデモのシンボル「子猫ちゃん帽」だ。

 デモの2カ月前、不動産王トランプが、ヒラリー・クリントンを抑えてアメリカ大統領に決まった。
 ハワイに住むテレサ・シュックは怒りを誰かと共有したいと思って、フェイスブックでデモを呼びかけた。翌朝、「デモ行進に参加したい」という声がパソコンにあふれた。その数が30万人を超えた。
 この呼びかけに呼応して、中央委員会がつくられた。名誉代表にはグロリア・スタイナム(フェミニスト)、アンジェラ・デービス(黒人運動家)、ラドーナ・ヴィタ・タビティト・ハリス(先住民運動家)、ドローレス・ヒエッタ(労働運動家)の4女性とハリー・ベラフォンテが名を連ねた。委員は女性運動家に加えて、黒人運動、環境運動、銃規制運動、移民の権利運動、投票権拡大運動……などに携わる若者やネット専門家、音楽家など総勢21人(女18、男3)。

 ワシントンに行けない私は、1月21日の真夜中に「日本から平等と平和に連帯! 2017年1月21日」と書いた紙を持って自撮りし、フェイスブックに投稿した。直ちにアメリカから「おー、マリ子、健在なり」と返信が届いた。










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さあ、一緒に行こう!(スウェーデン)



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 深い闇に包まれた白い大理石の像。赤い手書きのNU GÅR VI! は「さあ、行こう!」。
これは、1975年に国際女性年を記念して行なわれたスウェーデンのポスターコンテスト優勝作品だ。スウェーデン政府が募集した。女性差別撤廃の運動をもりあげるためだった。作者は美術教師のイヴォンヌ・クラソン。
 女性像2体が、ギリシャ神殿の上部を支えている。屋根を支えるために使われた人柱で、カリアティードと呼ばれる。この絵は、アクロポリスの丘に建つエレクティオン神殿の有名な6体の一部だろう。神殿は、紀元前5世紀末にアテネの王を祭るために造られた。
 よく見ると、後のカリアティードは、手前のカリアティードの肩に右手をのせている。「ねえ、一緒に逃げようよ」と誘っているかのようだ。ギョロリと上に向けた目は「頭が重くてかなわないなぁ」と言いたげだ。誘われたカリアティードの目は、遥かかなたを見つめていて、別天地に行きたがっているようだ。
 きっと2人は、一晩考えて、アクロポリスの丘から脱走したに違いない。行き着いた先はエーゲ海か、はたまたメキシコの第1回世界女性会議場か。

 1960年代から70年代、女性たちは、家庭や職場から屈辱的生き方を押しつけられたり、メディアが女性の性の商品化を煽ったり、女性抜きで物事が決められたりすることに、大ブーイングの声をあげた。
世界に吹き荒れた運動は国連をも動かし、国連は「1975年を女性年」と決め、世界女性会議を開いた。これが後の女性差別撤廃条約の制定になった。
 1975年は私にも忘れられない年だった。「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」に入会した。TVコマーシャル「わたしつくる人、ぼく食べる人」への抗議の輪に加わった。
 教員だった私は、教科書の描写や表現を洗い出して、出版社に改善を要求した。高校入学定員の男女差をやめて成績順にせよと、各都道府県に申し入れた。女生徒のみの必修科目だった家庭科を男女とものカリキュラムに変えるよう要求した。一方、日本政府は世界の動きを尻目に「家庭基盤の充実政策」なる代物まで発表した。保育所充実には目もくれず、家事に専念する主婦が有利となる税制に変えた。洗い出すときりがなくて、まるでモグラ叩きだった。

 最近、ポスターの作者イヴォンヌ・クラソンによる「首相と外相への公開質問状」がスウェーデン紙に載った。NATO非加盟にもかかわらずNATO友好国ぶった動きをする政府への反論だった。彼女は「さあ、行こう!」と抗議デモを呼びかけていた。

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核兵器反対の大行進

(北欧非核地帯キャンペーン)


 1980年代初め、米ソの緊張が高まった。バルト海あたりにはソ連艦隊がたむろし、アメリカは戦略ミサイル構想を打ち出した。
 核戦争への不安が高まるなか、スウェーデンの外交官であり、女性運動家のアルバ・ミュルダ―ルは「ヨーロッパ非核地帯構想」を提唱した。各国が核兵器の保有、製造、配備、実験をしない、さらには核兵器を積んだ艦艇を通過させない、という内容だった。
 彼女の構想は北欧中に広まった。中立国スウェーデン政府に反応はあったが、NATO加盟のノルウェーとデンマークの政府は鈍かった。

 女たちは運動に立ち上がった。このポスターには「非核兵器地帯 北欧」と書かれている。『80年代の女性の平和運動』という記録によると、1980年の夏、オスロで核兵器に反対する女性集会があった。それに出た1人が、「ヨーロッパ全体を巻き込んだ運動にできないだろうか」と夢を語り、話は具体化して「北欧からパリまで行進しよう」となった。
 翌1981年6月20日にコペンハーゲンを出発し、西ドイツ、オランダ、ベルギーを通過して、8月6日、広島原爆投下の日にパリに到着という40日間1100キロの旅。
 生まれて初めて外国旅行に出た女性、少女や少年たち、ベビーカーを押す男女、日本の仏教徒も。数千人の時もあれば、数百人の時もあった。デンマークから西ドイツに入国したら空気が変わり、窓を開けてはすぐ閉める家が増えた。ドイツもさまざまで、ヴェーゼルに着いたら、市民が手拍子で迎え、行進に加わったり差し入れしたりと、まるで祭りのようになった。
 ベルギ―からフランスへ。しかしパリっ子たちの関心は低かった。宿を提供してくれる家も少なく、歩き続けてきた女たちは倒れんばかり。そこに大勢を乗せた大型バスが北欧からやってきた。スウェーデンのパルメ首相も現れて応援演説をした。この様子が大きく報道された。すると、凱旋行進のようになった。

 参加者のなかにイギリスの女たちがいた。彼女たちは国に戻ると「北欧の女たちにならえ」と、8月27日から10日間、核兵器工場のあるカーディフから米軍基地のあるグリーナムコモンまでデモ行進した。
 運動は何年間も続き、世界中から女たちがグリーナムコモンに参集した。当時、アメリカに留学していた私は、そのキャンプから帰国したアメリカ女性の話に興奮した。
 今、グリーナムコモンの米軍基地は撤去され、女たちのたたかいは、反戦史に燦然と輝いている。










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嫌な女はどこにでも行ける(国際フェミニスト・ブックフェア)



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 「なんて嫌な女だ」
先日、アメリカの大統領選テレビ討論会で、共和党のトランプが、民主党のクリントンの発言をさえぎって、こんな横槍をいれた。
 その昔「嫌な女」呼ばわりされた私は、トランプのような男性から「嫌な女」と言われるのは勲章かも、という気分にもなって討論を聞いた。そして思い出したのが、このポスターである。

 スウェーデン語で「いい女は天国に行ける。でも嫌な女はどこにでも行ける」(三井マリ子意訳)。
作者も作成年代も発行元も不明。所持していたのは親友のノルウェー人マグニ・メルヴェール。先々週も、私はノルウェーの彼女の家に投宿したのだが、今もバスルームの壁に飾られてあった。

マグニは大学卒業後、ノルウェーの中都市エルヴェルムにある図書館で司書をしていた。1986年夏のこと、オスロ大学で開かれた「国際フェミニスト・ブックフェア」で、このポスターを見つけた。
 フェミニスト・ブックフェアは、1984年ロンドンで初めて開かれ、続く2回目はオスロ。大学キャンパスを使って1週間催された。女性によって書かれたありとあらゆる本が世界中から集められて、展示販売された。「女性解放と表現」をテーマのセミナーや、世界中の著名なフェミニスト作家を囲んでの、作品を論じ合う講座も設けられた。
 マグニが今でも忘れられないのは、エジプトの作家ナワル・エル・サーダウィの話だ。ナワルは精神科医で女性解放運動家。エジプト政府が女性にしてきたことを痛烈に批判した。著作は発禁とされ、国家反逆罪で投獄されたこともあったが、彼女の本は世界中に翻訳され、日本でも何冊か出版されている。女性器切除反対の闘士としても著名だ。
 セミナーでナワルは「イスラム社会の女性は、父親や夫の許可が出ないと外出もままならない」と話した。マグニは「1週間、留守にします」と夫と小学生の子ども2人に言って、オスロに出てきた。なのに、エジプト女性は父親や夫の厳しい許諾の眼にさらされて外に出られない。その理不尽に憤慨してポスターを買って帰ったのだとか。

 その後、「嫌な女…」はヨーロッパを中心に広まって、スウェーデンのポップ歌手はこの歌詞でヒットを飛ばし、ドイツでは同名の本が出版された。「嫌な女」シリーズのマグカップやTシャツもできた。NGO「働く女性の全国センター」の伊藤みどりさんは、そのキーホルダーを今も愛用している。
 私は、このポスターのカラーコピーをマグニからもらい、宝物のように大事に保管して、もう20年になる。

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女性参政権行使70周年を祝えるのか

(日本)


 戦後すぐの1946年4月、日本女性は投票所に足を運ぶことを初めて法で許された。その衆議院議員選挙で、全国から79人の女性が立候補し、何と39人もが当選した。
 秋田では和崎ハルが立候補して、ダントツのトップ当選。今日の1枚は、女性初の代議士・和崎ハルを描いたミュージカルの公演ポスターで、「女性参政権行使70周年」を記念した企画である。

 美容師だった和崎ハルは、白い割烹着を身につけ、右手にハサミ、左手に櫛を持っている。夫の死後、5人の子どもを育てるために秋田で初の美容院を開業した。髪を結いに来る芸者さんたちから身の上相談を持ちかけられた。遊郭に売られる貧農の娘、字が読めないばかりに騙される娘、前借金を返せずに苦界に沈む芸者…。憤りを隠せなくなった彼女は公娼制廃止運動にのめりこむ。
 知人の選挙応援をして、政治腐敗を目の当たりにする。1票約3円の買収、警察から不当監禁されての自殺。怒った和崎は、新聞や雑誌に「女性が政治に参加していくことが選挙の浄化に最も効果がある」と投稿する。
 1929年に「秋田婦人連盟」を創設して、政治教育講演会や買収防止運動を展開。翌1930年には女性参政権を求めて「婦選獲得同盟秋田支部」を創設。1932年になると、市川房枝や山高しげりを東京から招き、秋田市で「東北婦選大会」を開催。

 さて、このところ連日、富山市議会議員の公費横領事件が報道されている。自民党と民進党の男性議員9人が、政務活動に使うべき公費を飲み食いに使ったり、金額を水増しした領収書を偽造したり…。2012年の衆院選に出た私も、似たような事件に遭遇した。選対幹部の1人が、ポスター張り労賃の偽造領収書を作っては、政党交付金からその分を自分のポケットに入れていた。わかっただけで偽造領収書は25枚! 悪質だったが、書類送検されたものの起訴猶予だった。
 日本の「政治とカネ」のスキャンダルは底なし沼だ。兵庫の野々村県議事件、猪瀬都知事事件、甘利大臣事件、小渕優子事件、日歯連事件、舛添都知事事件…。
 「女性が参政権を求めるのは一部特権階級の手にのみ委ねられて居る今日の政治の改善を図りたいからである」約100年前の和崎ハルの文章は、残念ながら今日でも強い説得力がある。










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「民族浄化」を乗り越えて(クロアチア)



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 1992年、旧ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナをめぐって、国土と民心を破壊しつくす民族紛争が起きた。独立派のボシュニャク人とクロアチア人に対して反独立派のセルビア人が反発。このセルビアをNATOとアメリカが空爆して、今日のシリアのような殺戮戦が繰り広げられたのだ。
 自分たちの勢力圏を単一民族にするために異民族を排斥・抹殺する「民族浄化」(Ethnic cleansing)という言葉を世界に広めた戦争だった。
 浄化には非道の限りが尽くされた。その一つが組織的強姦だった。〝強姦キャンプ〞と呼ばれた女性収容所に集められた女性たちは、兵士に繰り返し強姦されお腹が大きくなって中絶ができなくなってから解き放たれた。
 さて、前置きが長くなった。このポスターは〝強姦キャンプ〞体験者などの独白を題材にした芝居『ヴァギナ・モノローグス』の宣伝に使われた。「女性への暴力に反対するキャンペーン」の一環だということは、赤字の「Vの日」でわかる。Vは、勝利(Victory)、ヴァレンタイン(Valentine)、ヴァギナ(Vagina)の3つを兼ねている。ヴァレンタインデーを皮肉って、2月14日にキャンペーンをする年が多いとか。
 もとの芝居はアメリカでヒットし、世界で上演された『ヴァギナ・モノローグス』。アメリカの劇作家イヴ・エンスラーが、世界の女性200人に女性器についてインタビューして書いた。その200人の中に強姦キャンプで極限の仕打ちを受けた女がいた。
 クロアチア版の芝居は、同国の著名なフェミニスト監督が演出し、最も虐待を受けやすい車いすの女性たちが役を演じた。企画したのはクロアチア女性学センター。芝居は大当たりした。


 センター代表のラダ・ボリッチが、つい最近、来日した。クロアチアきってのフェミニスト運動家で言語学者。強姦キャンプの悲劇を、劇作家イヴ・エンスラーに紹介したのも彼女だった。来日を知った私は「叫ぶ芸術」にクロアチアのポスターを含めたいと手紙を書いたら、この1枚を持ってきてくれた。
 ラダは、紛争の渦中、民族や宗教を超えて、暴力にあった女性たちの救済に立ち上がった。国粋主義者からの嫌がらせもはねのけて、究極の辛酸をなめた女性たちを地域のリーダーになるように教育し、いま第二、第三のラダが誕生しているそうだ。

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20年前も今もEUに「ノー」

(ノルウェー)


 6月24日、イギリスは国民投票でEUから離脱する道を選んだ。そのとたん、ポンドは急落、株は暴落、首相は交代。世界中が大騒ぎになった。
 大方のメディアが言うように、難民急増を恐れる国民の感情に乗る離脱派の作戦が功を奏したこともあるが、私は「EUに加盟して40年。長年のEUに対する懐疑心が票になって表れた」とする『ガーディアン』紙が当たっていると思う。

 20年前、ノルウェーはEU加盟の是非を決める国民投票をした。「賛成派の首相が女性、反対派の政党党首も女性」という論戦を取材したくてオスロに飛んだ。
 このポスターは、EU加盟阻止のためのノルウェー市民団体「EUにノー」がつくった。下方の建物は国会議事堂。国会を乗っ取るような巨大な木製の像は、北欧神話に出てくる女神サーガ(千里眼を持つ女性)だ。
 ノルウェー政府はEU加盟を決定し、加盟申請までしていた。労働党と保守党の2大政党に加え、最も右寄りの進歩党まで加盟に賛成だった。主要メディアも賛成の論陣を張った。他のヨーロッパ諸国は軒並みEUに加盟したがっていた。

 しかし、サーガは勝った。反対52・6%、賛成47・4%。女性の57%、男性の48%が反対した。牽引力は女たちだったのだ。反対派の女たちはこう主張した。
 「ノルウェーは不平等をなくすことに社会の富を使ってきた。保育、教育、福祉など公的サービス部門を充実させた。その結果、女性の職場が増えた。すべての女性が無理なく外で働けるようになった。しかしEUは、福祉分野に市場原理を導入し、公的分野を縮小させようとしている。これでは金持ちしか、必要なサービスを受けられなくなる」
 「EUの超国家的性格は、ノルウェーの主権を侵す。ノルウェーでは、地方が決定権を握ってきた。“身近なレベルの民主主義”を常に大切にしてきた。EUはこの伝統と相いれない」

 「EUにノー」が主催した勝利パーティを覗いた。巨大な木製のサーガがステージを見下ろしていた。登壇した人たちは勝利に酔わず、「さらにたたかおう」と声高らかに気勢をあげた。
 その言葉にウソはなかったようだ。ノルウェーの最新調査だと、EU反対74%、賛成14%、分からない13%。
 日本人なら多いはずの「分からない」が極めて少ないことに、日本人の私は感服している。










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泣き寝入りするな!(ルクセンブルク)





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 女性は、口をふさいでいたバンドエイドを剥がそうとしている。強盗が使うのはガムテープだが、これは、自らが貼るバンドエイドだ。いわく、「家庭内暴力泣き寝入りはやめよう」
 夫や恋人から殴られたり髪を引っ張られたりした女性たちの多くは沈黙する。だから悲劇は顕在化しにくい。しかし70年代になると、フェミニストたちが家庭内暴力を「人権と自由の侵害」であると訴え始めた。北欧諸国は公的調査を始めた。90年代になると、国連や欧州連合EUが政策課題として取り上げるようになった。

 今日の1枚は1995年、EUの中心国の一つルクセンブルクを訪問したときに入手した。ルクセンブルクには欧州裁判所がある。女性差別とたたかって自国の裁判では敗訴したヨーロッパ中の女性たちが、ルクセンブルクのヨーロッパ法廷で自国相手に戦う仕組みを、私は知りたかった。
 折から、英国の「性差別禁止法」そのものに不備があると、英国を訴える、そんな裁判が開かれていた。男性の身体で生まれた性同一性障害の英国の原告が、女性に性転換手術をしたら解雇され、英国の裁判で敗訴した事件だった。
 欧州裁判所の権限の強さを学んだ後、市内にある女性団体を訪ねた。案内役の女性は開口一番、「EUの法の番人がルクセンブルクにいるからといって、我が国が男女平等先進国だと思ってはいけません」と言った。いかに女性議員が少ないか、いかに女性の雇用問題が解決されていないか、いかに女性への暴力対策が生ぬるいか、教えてくれた。

 あれから20年、EU28カ国が行った家庭内暴力に関する最新調査がある。被害経験のある女性は、ルクセンブルク38%で、EUの平均33%より高い。デンマーク52%、フィンランド47%、スウェーデン46%と、男女平等の進んだ北欧諸国が高く、最も低いのはポーランドの19%。
 この数字は、夫や恋人から暴力を受けたのに「しかたがないことだ」と思う女性が多いかどうかで変わる。北欧に暴力夫が多く、ポーランドは少ないと単純に決めつけることはできない。

 日本の最新調査によると、被害経験のある女性は23・7%で、以前より減った。女性と人権全国ネットワークの近藤恵子さんは「日本社会が、DVを言い出しにくい雰囲気に変わってきている」とバックラッシュ(反動)を危惧する。

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新ドル札の顔になる19世紀のモーゼ

(アメリカ)


 アメリカ・メリーランド生まれの奴隷ハリエット・タブマンは、1849年、奴隷制のないフィラデルフィアへの逃亡に成功した。その直後の安堵の気持ちが、こんな記述で残っている。
「越えたんだ。私は、前と同じ人間なのかと両手をまじまじと見た。あらゆるものが輝いていた。木立の合間から出てきた太陽は、田園の上に輝き、まるで天国にいるような気分だった」。

 彼女の逃亡を助けたのは、「地下鉄」という隠語で知られる秘密結社だった。奴隷は「乗客または貨物」、奴隷を誘導するリーダーは「車掌」、隠れ家は「停車駅」、隠れ家の提供者は「駅長」。
 黒人たちはいくつもの「停車駅」の支援を受けながら逃げた。捕まればリンチ・虐殺が待っていた。夜陰に乗じて道なき道を荷車を引いて逃げた。
「地下鉄」は1810年から1850年までの40年間に10万人ほどを解放したといわれている。
 ハリエットは逃亡の翌1850年、めい一家(奴隷)が転売されると知るや、密かにメリーランドに戻って、一家を無事に逃亡させた。以来、「地下鉄の車掌」として、親類縁者60人を逃亡させた。
 1850年、アメリカ合衆国議会は南部議員らの圧力によって「逃亡奴隷法」を制定。逃亡を手助けした者は厳罰に処せられ、逃亡者は元の州に送還されることになった。すると彼女は、カナダへ逃亡させた。脱出させた奴隷は11年間に300人以上といわれ、ハリエットは「モーゼ」と呼ばれるようになった。

 南北戦争の時には北軍側のスパイとして暗躍。その後は女性参政権獲得運動に身を投じた。彼女を崇拝する上院議員からニューヨークに小さな土地を譲りうけて家庭を築いたが、やがてその土地を教会に寄進。貧しい黒人の老人のための施設を建てて、自らもそこで93歳の生涯を閉じた。1913年だった。

 今年4月、ハリエット・タブマンが新20ドル札の顔に選ばれたニュースが世界に流れた。
 アメリカ紙幣にアフリカ系アメリカ人の顔が登場するのは初めてのことだ。「女性参政権獲得100年」の2020年を記念して、女性団体が女性の顔を新20ドル札に採用せよと大運動を展開。アメリカ財務省は、この声に応えて60万人以上にアンケート調査した結果、ハリエット・タブマンが1位だった。

 今から4年たつと、新20ドル札の表面に彼女の顔が現れて、現20ドル札のアンドリュー・ジャクソン元大統領は、裏面に移される。ジャクソンは、何百人もの奴隷を使っていた綿花栽培王であった。










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この髭が目にはいらぬか!
           (ノルウェー)



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 男女平等では世界の先頭を走るノルウェーでも、男女の賃金格差は、男100円に対して女85円だ。
 2009年、ノルウェーの女たちはこの賃金格差に怒って、「同一価値労働同一賃金」を求める空前の大ポスター作戦に打って出た。女性看護師が、鼻の下に横一文字の筆書きの髭を付けて微笑みながら「ひと筆で格差を減らせますよ」と国民に呼びかけた。
 「髭」は男の象徴で、つまりは「髭のあるなしだけでこんな格差があっていいのか」と訴えたのである。

 ポスターは、あらゆる駅や公共機関に貼り出され、新聞、雑誌、ネットにも登場した。黒色の筆でサッと書ける簡単さ。子どもの落書きのように見えて、何だかおかしい。この「鬚キャンペーン」は大当たりし、一時は町からポスターが消えた。市民に持ち去られてしまったのだ。
 作戦を企画したのはノルウェー看護協会だった。男性会員もいるが、主力は女性。9月の国政選挙を射程に入れてキャンペーン特別班を編成し、作戦は年明けから動き出した。協会のホームページには多数の著名人がポスターと同じ絵柄の髭で登場し「同一価値労働同一賃金を支持します」と訴えた。3月8日の国際女性デーには、冷たい雨の中「ひと筆鬚」をつけた労働組合の女性たちが、ポスターを首から下げて大通りを練り歩いた。
 9月の投票日直前には、新聞の見開き全面を使った新聞広告も出した。病院のナースステーションらしき部屋で、主要8政党の党首と白衣の看護師が会議をしているかのような合成写真。看護師の「性差別賃金を減らす具体策はなんですか。いつ、それを実行しますか」という質問が大見出しとなり、各党首の「特別予算を組みます」などという弁明が書き込まれている。作戦の総経費は300万クローネ(約4500万円)。

 日本の賃金格差は、男100円に対して女66円。これは正職員に限ったものだから、非正規を含めると女性は50円程度だろう。地球全体で見れば、格差が縮まる方向に動いているのだが、問題はいつ達成されるか、だ。
 ダボス会議で知られている「世界経済フォーラム」は2015年末、世界の男女賃金格差が解消するのに、あと何年かかるのかを諸々のファクターを勘案して試算した。それによると、118年だとか。

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赤いバラの闘い

(アムネスティ)


 20年以上前のことだが、マレーシア・クアラルンプールで、通訳の女性に「あなたの国が抱えている最大の女性問題はなんですか」と尋ねてみた。すると声をひそめ、絶対匿名を条件に「女性器切除の慣習です」。

 マレーシアはマレー系、中国系、インド系の主要3民族のほか、たくさんの民族が混じる多民族国家だが、国教はイスラム教だ。マレー系女性は、宗教・文化的慣習から幼い頃、ほぼ全員が性器の一部を切除されるのだという。通訳は中国系マレーシア人だった。
 「でも、あなたは仏教徒ですからしなくていいんですよね」「実は姉はマレー系男性と結婚したんですが、彼は性器を切除してない女性とは結婚できないと言い張るので、ついに姉は女性器切除をされました。姉のような例はたくさんあるのに、誰にも話せないので、社会問題にならないのです」
 女性器切除(FGM)は、アフリカの国々の村で行なわれている伝統的儀式だとは聞いていたが、高層ビルが立ち並ぶアジアの大都市でも行われていると聞いて、怒りがこみあげた。

 多くの場合、カミソリやガラスの破片で麻酔なしで切りとり、縫い合わせる。激痛と出血のショックで精神に障害をきたしたり、排尿障害、感染症、貧血、腎障害、性交時の激痛、難産、月経困難症…死に至ることもある。生後1週間から初潮を迎える頃の15歳までに行われる。蛮行の理由だが、結婚前の女性は純潔でなくてはならない、よって性的快感を得る女性器の一部は切除しなければならない、という偏見に基づいている。女性器切除をしないと女性は結婚できない、という迷信もあるという。
 ユニセフ、WHO、国連人口基金なども根絶に乗り出した。アフリカでは禁止法を制定する国も出てきた。しかし、世界30カ国で2億人以上の少女・女性が犠牲になっており、今も毎年、約300万人が危機に瀕している(2016年、WHO)。

 このポスターは、FGM根絶の世界的キャンペーンを展開するアムネスティのために2009年、スウェーデンのデザイン会社「ヴォロンテール」が無料で提供を申し出た。ひとつ間違えば扇情的に陥りかねない、このタブー中のタブーをどうすれば目を引く広告にできるか。デザイナー2人は、真っ赤なバラの花びらを縫い合わせて、見事な芸術作品にしあげた。

 白い小さな字いわく
「これは明らかな人権侵害である。いかなる政府もこの犯罪に目をつむってはならない。少女・女性への暴力を許さない、このたたかいに力を」










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家庭内暴力と闘うモーツァルトの国
(オーストリア)



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 目にいっぱいの涙は、どんな言葉も及ばない強いインパクトで恐怖を語る。オーストリア・ウィーン市の「子どもと女性への暴力廃絶キャンペーン」の1枚。2004年、ウィーン市女性局で頂戴した。下部のドイツ語が雄弁だ。

「ベッドから落ちただけ?」
 診断書いわく「上まぶた充血、頭蓋骨出血、半月板損傷」
 両親いわく「眠っていてベッドから落ちたようです」
 子どもへの暴力は隠されることが多いのです。
女性と子どもへの暴力を撤廃しよう。

 ウィーンの誇りは、モーツァルトやシューベルトだけではない。女性と子どもへの暴力廃絶への取り組みも自慢の種だ。代表的政策はウィーン市の「女性ホットライン(電話相談)」で、24時間・365日休みなし。その実践は今やEUの模範である。ウィーン市女性局の職員によると、相談には実名も住所もいらない。スロベニア語、ポーランド語、チェコ語、英語などOK。悩みの軽重も問わない。
 「女性ホットラインは1995年12月に、フェミニストの副市長グレーテ・ラスカが牽引車となって、市庁舎の一角でスタートしました。家庭内暴力(DV)は、女性の尊厳を踏みにじる深刻な犯罪です。これは、女性の自己決定や経済的自立を獲得するたたかいでもあります」
 女性ホットラインは、オーストリアではウィーン市のほかに6つあって、ウィーン市は公費100%、他市は約90%。ほかに70年代に女性運動家たちが設立したシェルターも多数ある。
 さらにDVインタベンションセンターでは、被害女性が警察や裁判所に臨むときの心理的支援から、就職の支援まで行なう。DVは子どもや女性の心に癒しがたい刻印を残すから、小さな兆候も見逃さないよう、警察や病院への出張研修も怠らない。

 日本で10年以上、DV被害者支援を続ける吉祥眞佐緒「エープラス」代表は言う。
「もちろん、わが国の公的支援の余りの少なさは痛い。でも、もっと問題なのは、DVが男性と女性の支配・被支配構造から起きる、という理解が、男性はむろん女性にも非常に足りないことなのです」
 この男と女の支配・被支配問題。世界共通の古くて新しい難題だ。

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本を読もう!(ロシア)

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 この「叫ぶ芸術」そのもののようなポスターは、イタリアの友人宅の台所の真っ白な壁に掲げられていた。

 女性の生き生きとした表情、極端にまでそぎ落とされたシンプルな構図、ダイナミックなデザイン、大胆な色づかい…。聞けば1924年に旧ソ連で制作されたポスターのコピーなのだとか。今から90年以上も前のことだ。
 最も印象深いのは、白黒写真の女性だ。「クニーギィ」(ロシア語で「本」の意味)と叫んでいて、国立出版社レニングラード支部の宣伝に作られたものだという。

 モデルは、リーリャ・ブリーク(1891~1978)。ソ連の映画監督で、左翼芸術雑誌“LEF”の編集にも関わった。数多くの芸術家や作家を世に出したことでも知られている。リーリャはモスクワの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。芸術家、作家、映画監督、画家、オペラ歌手などなど、パリやベルリンからの訪問客が集うサロンのような家庭だったらしい。彼女は、バレエやピアノのほか詩や絵画にも才能を発揮した上、ドイツ語とフランス語に堪能、モスクワ建築大学で建築と美術を専攻した。
 21歳でオシップ・ブリークと結婚したのだが、その一方で、反体制派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーと恋に。マヤコフスキーの詩のほとんどすべてが彼女にささげられる。夫は妻の恋愛を認めて、支援さえするようになり、やがてマヤコフスキーら3人は仕事と生活を一緒に始める。
 その前衛芸術家のサロンには、『ドクトル・ジバゴ』を書いたノーベル賞作家ボリス・パステルナーク、『どん底』の小説家マクシム・ゴーリキー、映画『戦艦ポチョムキン』の監督セルゲーイ・エイゼンシュテーインなど、世界の宝と言われるアーティストが集うようになる。

 さて、ポスターの作者のアレクサンドル・ロトチェンコ。「ロシア・アヴァンギャルド」に属し、絵画、建築、写真等多岐にわたって活躍した。1920年代にはマヤコフスキーと共同でポスター制作に熱中。彼の作る詩がキャッチフレーズとなり、効果的なデザインと相まって、プロパガンダポスターの傑作が多数生まれた。

 イタリアの友人は、70年代にトリエステ市内のイタリア共産党系の書店で、見つけた。
「これはラディカルな左翼女性運動家だった私の青春の思い出ね」

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女に仕事を!

(デンマーク)

 60年代から80年代まで、世界のあちこちで女性解放運動の嵐が吹き荒れた。デンマークでは、レッド・ストッキングというグループが一世を風靡した。
 厚化粧、女らしさを誇張した服装、ハイヒール、セックスアピール、へりくだった態度、こんな「いびつな女らしさ」で飾って目抜き通りを行進。終着地でそれらをひとつひとつ脱ぎ捨てていく…このデモンストレーションは、レッド・ストッキングの名を特に高めた。
 このポスターは、それがどんな運動だったのかを示す貴重な1枚である。18世紀のイギリスに「ブルー・ストッキング」という女性だけのクラブがあった。そのブルーをレッド(つまり左翼)に変えて、このグループは誕生した。運動のスローガンは、「女性の解放なくして、階級の解放なし」、「個人の問題は、政治の問題」。
 深紅のバラはデンマーク最大政党である社会民主党のシンボルだが、その赤いバラをポイと投げ捨てて、たくさんの女性を握りしめている。これは「社会民主党を捨てて女性同士で連帯を」と叫んでいるのだ。女たちの顔を見よ。ただならぬ形相でこぶしを高々とあげている。手書きのデンマーク語を私なりに訳してみた。

  最初に閉め出されるのは誰なのか
  女たちは
  人間の道に、豊かさに、
  渇きを覚えている
  今は、危機の時だ
  何をされるか知っているのか
  扉を閉められるんだよ
  女たちの勇気をみせよう!

 レッド・ストッキングは、学生運動の中の男性主導的運営に怒り、父権制社会の変革を求めた。上下の人間関係を嫌い、全員が対等の立場で、「コンシャスネス・レイジング」と呼ばれる話し合いによる意識改革を行った。組織につきもののリーダーをいっさい置かずにものごとを決めた。女らしさの文化や慣習に異議を申し立てた。女だけのサマーキャンプで共同生活をした。嘲笑や誹謗中傷も多かったが、女性博物館、女性図書館、女性学などの創設に多大な貢献をした。
 ポスターに作成年は書かれていないが、私が、オーデンセの女性図書館からポスターを譲り受けたとき、「1970年代後半」と聞いた。中道右派政権から再び中道左派政権に交代があったころだ。女性の失業率が高いことに、なんの策も講じようとしない政府に憤怒の声を上げたのだという。
 これは、今の日本に、そっくり言えることだ。










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リップスティックで男女平等
(フィンランド)

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 2015年3月、フィンランドで国会議員選挙があった。国会議員200人に2146人が立候補した。女性は845人、全候補者の39.4%を占めた。結果は、女性83人が当選し、全体の41.5 %。
 私が出た2012年の日本の衆院選挙と比べてみる。全候補者1504人のうち、女性は223人で14.8%。女性の当選者は39人。わずか8%だった。
  1907年、フィンランド国会の女性議員は11%だったから、フィンランドの100年前より日本は少ないのである。しかしフィンランドの女性たちにとって、今回の41.5 %は、伸び悩みなのだそうだ。さほど喜んでいない。

 この国の女性たちが、「国会の半分を女性に」という目標を掲げたのは、20年以上も前だった。
 国政選挙を翌年に控えた1994年、私は、ヘルシンキにある「フィンランド女性会議」のオフィスを訪問して、レパマーキ代表、エルシー元代表、クローン事務局長の3人を取材した。事務局長は言った。「フィンランドの女性は、1906年、ヨーロッパでどの国よりも早く参政権を獲得しました。その年、すべての国民、つまり男性も女性も同時に参政権を得ました。ですから参政権に関して、フィンランドは世界で最もジェンダーギャップの小さな国です。初めての選挙で女性は19人、11%でした。現在の目標は国会の半数、つまり100人を女性にすることです」。
  啓発運動の絵ハガキを2枚もらった。1枚には「国会に100人の女性を」、もう1枚には「女性であるって素敵」とあって、真っ赤なリップスティックのキスマークがドーンと描かれていた。
 当時、日本で某テレビ番組に出ていた私は、男性出演者から「男女平等っていうけど、口紅つけているじゃないか」と言われた。男女に違いがあるのは当然で、その違いで差別や抑圧を受けるのは不当なことだ、という基本が彼にはわかっていなかった。フィンランドの絵ハガキの真っ赤な唇を見て、この国にはその基本が根づいているらしいと思った。

 今日のポスターは、つい先月、同じ「フィンランド女性会議」から贈られた。梱包を開いてびっくり。「100年の歴史。女性の言葉と行動」というフィンランド語ではさまれた投票箱には、例の真っ赤なキスマークがついていた。
 ポスターは、女性参政権100周年にあたる2006年の記念行事を知らせるために使われた。カタログには「人口の51%は女性だから、国会の101人は女性が好ましい」と書かれていた。

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やつらを通すな!
(ノー・パサラン・ネットワーク)

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 「ノー・パサラン! ノー・パサラン!」。安保法案に反対する若者たちが口にした、「やつらを通すな!」という意味のスペイン語だ。「ノー・パサラン」は、スペイン、フランス、イギリス、ニカラグア、コロンビア、コソボ、エストニア、ロシア、香港…世界を駆け巡って、圧政に反対する抵抗運動のスローガンとして使われ続けて、今に至っている。日本で使われ出したのは、安倍政権が台頭したころらしい。

 この言葉を私に教えてくれたのは、パリの女性団体「ペネロぺ」だ。2003年、日本の女性運動についてスピーチしたお礼に頂戴したのがこのポスターだった。
「セクハラは、もうたくさん!」「嫌がらせも、もうたくさん!」「搾取も、もうたくさん!」「私たちは、自分たちの意志で、手に入れたいものを手に入れる」というフランス語が並ぶ。
 私は、右下に描かれたイラストに目を奪われた。メスマークつき握りこぶしが「ノー・パサラン!」と叫んでいる。「ノー・パサラン!」は、ポスターをつくった団体名でもあった。ファシズム、性差別、人種差別、資本主義などあらゆる差別と搾取に抵抗して、社会革命をめざす。1984年、極右の台頭をきっかけにトゥールーズで誕生した。本部はパリのボルテール通りにある。

 「ノー・パサラン!」の起源は古い。1936年7月18日、フランコ率いる反乱軍がスペイン領モロッコで武装蜂起し、マドリードに侵攻した。ただちに、共産党の女傑で国会議員のドローレス・イバルリは、ラジオ・マドリードで「ファシスト軍に立ち向かおう。自由のために、民主主義のために」とスピーチし、こう締めくくった。「反ファシストの同志よ、共和国の人々よ、万歳! ファシストを通すな! やつらを通すな!」彼女の訴えは人々の心をわしづかみにした。そしてスペイン内戦が始まった。

 マドリード市民は、彼女を先頭に、バリケードを築いて徹底抗戦を続けた。フランコ反乱軍にはドイツ、イタリアがついたが、人民戦線にはイギリスもフランスも支援の手を差し伸べなかった。世界の同情が集まり、フランスをはじめ50カ国以上から若者たちが義勇軍として参戦した。合言葉は「ノー・パサラン」。
 だがマドリードは陥落、ドローレス・イバルリはフランスに亡命。当時、フランスでも非合法だった共産党の手でパリにかくまわれた。彼女は1977年に母国に戻り、国会議員に再選された。82歳であった。

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セクハラに悩む欧州の警察
(ヨーロッパ女性警察官ネットワーク)

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 わかりやすいデザインである。
 警察にあたる「POLICE」のアルファベットO(オー)に、オスマークとメスマークを抱き合わせた。いやらしい目つきで言い寄るオスマーク、迷惑顔のメスマーク。左上には道路標識の「ストップ」。
初めて見たのは20年前だが、表現の簡素さには、いつも感嘆してしまう。これなら、どの言語の人にも「男性警察官よ、同僚へのセクハラをやめろ」という警告だとわかる。
作成者はオランダの風刺漫画家アレン・ヴァン・ダム。世界的な授賞歴がある著名人らしい。さぞギャラは高かっただろう。

 依頼主は「ヨーロッパ女性警察官ネットワーク」。ヨーロッパ諸国の男女平等と女性警察官の地位向上を目的にした非政府機関で、1989年にオランダのノールトウェイケルハウトで開かれた女性警察官世界会議で結成された。このポスターは、創設から4年後の1993年12月にオランダで開催される「ヨーロッパ警察署内セクシャル・ハラスメント対策」会議のために作成された。オランダ自治省が財政的に援助をし、欧州連合EUも協力した。EU加盟国の警察官と各国政府代表が公式に参加した、史上初の国際的セクハラ対策会議だった。
 会議では、各国から女性警察官へのセクハラ被害が発表された。たとえば、イギリス政府による国内全警察署内セクハラ実態調査によると、しばしばセクハラにあっている女性警察官は59%、1度はセクハラを経験した女性警察官となると99%にも上った。開催国オランダの自治大臣は、「セクハラ被害の多さは警察が『男の世界』だったことの証拠。女性警察官の増員が必要だ」と力説した。

 「ヨーロッパ女性警察官ネットワーク」の合言葉は「Quality through Equality平等を通じて質の向上を」。
 クオリティとイクオリティを並べただけだが、韻を踏んでいるところがお洒落だ。
 代表は2年ごとに選挙で決まる。現代表は、スペインのバルセロナのモンセラ・ピ―ナだ。就任にあたって「私は女性であることで性差別を受けた。しかし今やヨーロッパでは警察官全体の30%から40%が女性となった。女性を警察官や幹部にもっと増やして、警察の世界に新しい視点を入れたい」と語っている。人身売買や性産業での被害女性の救出から、難民の家族内暴力への対応まで、女性警察官の国境を越えての出番は、確実に増えている。

 さて日本だが、最新の調査では女性警察官は全体の7・7%だとか。警察庁や警視庁が、警察官のセクハラ被害調査をしたというニュースは、まだ聞かない。

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もう、不法占拠しかない

(デンマーク)

 冬の月が冴える夜。
 闇にまぎれて、どこからともなく現れた女たち4人。屋敷に侵入し、懐中電灯で足元を照らしながら階段を一歩一歩上っていった。
 門の横に、また10人。先発隊の後を追って、階段を上った。10分経過すると、また10人、そしてまた10人…。
 全員が大部屋に入ったことを確認し、いっせいに手元の懐中電灯をつけた。パアーッと室内全体がライトアップされた。
 「やったぁ、この家は私たちのものだ!」
 1979年11月2日深夜、「ダナーの家」占拠の瞬間だった。

 コペンハーゲンにある女性のシェルター「ダナーの家」。それは19世紀に、王妃ダナーが建てた邸宅だった。
 ダナーは国王に見初められて結婚したものの、家柄が貧しい上、前の恋人との間に子を持つ未婚の母でもあったため、生涯、正式の王妃にしてもらえなかった。国王の死後、莫大な遺産を譲り受け、その一つを王妃は「貧しい女たちの駆け込み施設に」と遺言に残した。しかし、時は流れ、遺言は忘れられ、ダナーの家は管理費を賄えずに朽ち果てていった。

 これに目をつけたのが女性解放運動団体「レッド・ストッキング」。当時、社会問題になりかけていたDV被害者の避難所として、この家をよみがえらせたいと考えた。管理していた財団に話を持ち込んだが、不動産会社への売却が決まっていて、話し合いは決裂。
 「もう、不法占拠しかない!」こうして月夜の侵入となった。マスコミが大々的に報道して、不動産会社も軟化し、「それほど欲しいなら売ってもいいですよ」と言い出した。
 ここから、不法占拠募金活動→屋敷の取得→改造工事→女性シェルター創設、とトントン拍子に進み、全国民をまきこんだ一大社会運動劇としてデンマーク女性解放史の1ページを飾った。

 今回のポスターは、80年代初頭の募金活動のもの。このポスターで280万クローネ、約1億2000万円という大金が集まって、屋敷を手に入れることができた。改造工事も女性だけでやってのけた。
 19世紀、20世紀と高揚していった女たちの変革を求めるエネルギーを、みごとに結実させた 「ダナーの家」。21世紀の今は、総合女性支援センターとして活用されている。








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20年も待たせるな!

(国際公務員労働組合)

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 ちょっと時期がずれたが、3月8日は国際女性デー。女であることを喜び、女をみくびる慣習や意識にたたかい続けようと誓い合う日だ。
 国際女性デーのスタートは1911年と言われている。毎年、世界のあちこちで祝いの行事がある。この日が祝日の国もある。

 このポスターは、今年の国際女性デーに向けて国際公務員労働組合(PSI)が作った。
 女性が思いっきり口をあけて叫んでいる。「20年も待たせるな!」
 そう、20年前の1995年、中国で第4回国連世界女性会議が開かれた。世界190カ国から約4万人が北京に集まった。熱気と興奮に包まれて「北京行動綱領」が採択された。

 女性の貧困や女性への暴力の撲滅、教育・経済・政策決定への平等なアクセス、メディアの固定的性役割描写の根絶などなど。「北京行動綱領」は、各国政府に対して、戦略を立てて実行せよと迫った。しかし、実態は…私もポスターの女性にならって叫びたい気分だ。
 PSIは1907年に創設された。世界154カ国の公務職場で働く約2000万人がメンバーだ。本部はフランスのフェルネ・ヴォルテール。事務局長はイタリアの女性で、彼女は女性の働く場を奪う「緊縮財政」と「民営化」に強く反対している。

 さて日本では、3月8日、渋谷ハチ公前で「女性と政治キャンペーン」があった。翌4月に統一地方選を控えたこともあって、「女性議員を増やせ」がテーマだった。東京近郊の女性たちが集まって、日本列島に多く残る「女性ゼロ議会」を減らそう、女性議員を増やそう、とピンクの大きな旗でアピールした。
 「北京行動綱領」には、あらゆる政策決定の場に少なくとも30%の女性を、と明記されている。
だが日本の議会は30%どころか約10%だ。「ブレイク・ザ・チェーン(連鎖を打ち砕け)」が歌われると、フラッシュモブと呼ばれる即興ダンスも始まり、通行人も交えての路上パフォーマンスが続いた。

 ところが、お隣の中国は事情が違った。国際女性デーに合わせてセクハラ根絶を訴えようと準備していた女性運動家少なくとも5人が、直前の3月6日、7日に公安に拘束された。「セクハラをなくして安全な社会に」「警官よ、セクハラ男を捕えろ」と書いたステッカーを配る計画だったとか。「騒動挑発」の容疑で拘束された後、容疑は「公共の秩序を乱した」に切り替わった。
 世界中から抗議が殺到し、拘束は約1カ月後に解かれたという。国境を越えて共闘する、国際女性デーの勝利だった。

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革命はポルカに乗って

(リトアニア)

 エマ・ゴールドマン。1869年リトアニアに生まれ、アメリカで活動し、1940年カナダで亡くなった。フェミニストの間ではよく知られた、アナーキストの女性解放運動家である。

 彼女は自分らしい生き方を信条にした。その伝説の思想的自由奔放さを表した、このポスターが、70年代のアメリカに登場した。
 高々と掲げるバナーには、「もし私が踊れないなら、私はあなたの革命に参加する気はない――エマ・ゴールドマン」。舞曲は、リトアニア人が大好きなポルカだろうか。

 エマ・ゴールドマンは、日本の女性運動とも無縁ではない。平塚らいてうとともに雑誌『青踏』を編集発行した伊藤野枝に強い影響を与えた。エマはアメリカで雑誌『母なる大地』を発刊して、反戦や産児制限などで論陣を張った。10代だった伊藤野枝は、『母なる大地』で女性の自由に関するエマの論文を見つけて感銘し、『婦人解放の悲劇』と題して和訳し、日本に紹介した。
 野枝は1923年、憲兵に連れ去られてその日のうちに扼殺された。残された子ども5人のうち2人に「エマ」と名づけていた。

 流浪の民のエマ・ゴールドマンは、小国リトアニアのカウナスで、ユダヤ人の家に産まれた。13歳のとき、一家はサンクト・ペテルブルクに移る。「女に学問はいらない」という親に逆らって、15歳で姉とともにアメリカへ移住。ニューヨーク州ロチェスターに住んで縫製工場の女工となる。結婚して永住権を得た後、すぐ離婚。ニューヨークシティに移り、労働運動に身を投じる。
 24歳のとき、「仕事を要求せよ。仕事をくれないなら、パンを要求せよ。どちらもだめなら、まずはパンだ」と、1000人以上の群衆を前に演説をし、初めて逮捕された。「社会を扇動した罪」だった。

 後の30年間で、逮捕されること6回。1916年、産児制限運動で逮捕。1917年、反徴兵制運動の扇動で逮捕。出所後の1918年、再逮捕されて国外追放。革命に命を投げだすつもりでロシアに移住したが、そこで目にしたのは極貧にあえぐ民衆だった。
 ロシアに絶望した彼女はイギリスにわたり、1921年『ロシアへの幻想の崩壊』を書いて、共産主義者を激怒させた。こうして彼女は、アメリカ資本主義とソ連共産主義の双方を敵に回した。
 時空を超越した人生だった。

 ソ連とナチスドイツに囲まれて侵略の大波に洗われ続けた母国リトアニアが、国として本当に独立できたのは、1990年になってからである。












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強制結婚の恐怖を
知っているか!

(英国)

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 その小さな墓石には「バナーズ・マームード、1985年12月16日生~2006年1月24日没」とあった。僅か21年の生涯は、ロンドンの警察や検察庁の先入観を打ち砕いた。
 イラクのクルド地区生まれのバナーズの一家は、1995年、サダム・フセインの弾圧を逃れてロンドンに亡命した。バナーズは10歳の物静かな少女だった。17歳のとき、父親によって同じクルド系の男性と強制結婚させられたが、暴行と強姦に耐えられず、何度か家出をしては連れ戻された。何回かの家出の末に恋人ができた。

 2年前、バナーズが警察署で供述している録画を含むドキュメンタリー映画『バナーズ』を見る機会があった。

尾行されているとわかったバナーズが警察に駆け込む。痩せ細った顔面蒼白の彼女が、小さなメモ用紙を手に、警察官に話し始める。

「彼は私を強姦し、髪の毛をつかんで引きずり回しました。唇や耳から血が吹き出し、私の左手首の骨はねじ曲げられました」「私は追われています。私の身に何か起こったら、犯人は彼らです」
 しかしロンドン警察は、強制結婚や名誉殺人の怖さが理解できなかった。彼女が行方不明になってから、やっと捜索が始まった。だが、時すでに遅し。ある家の裏庭に埋められたスーツケースの中から、強姦・絞殺されたバナーズが出てきた。
 離婚は一家の恥辱だとする因習で始末されたのだ。父親と伯父が逮捕された。しかし共犯者たちは国外逃亡。捜査の手はイラクにまで伸びて、4年後に全員が逮捕された。

 事件は、このポスターの作成元「イムカーン」を動かした。
イムカーンとは「選択」という意味のウルドゥー語で、90年代末にロンドンに設立された。「正義」と「自由」と「平等」をめざす黒人フェミニスト組織だ。「黒人」の概念は広く、英国に暮らすアフリカ人、アフリカ系カリブ人、アフリカ系英国人、南アジア人、東南アジア人、クルド人の女性が含まれる。「強制結婚」「性器切除」「名誉殺人」を撲滅するために、相談、自己啓発、駆け込み施設運営、調査、研修、政策提言を行なってきた。

 イムカーンなどの運動によって2008年「強制結婚に関する法」が施行された。強制結婚させるために娘を国外へ連れ出す親に対して、英国政府が娘を英国に戻す命令を出すことが可能となった。2010年に出された命令は149件。被害者の半数近くが17歳以下だった。また警察官には、強制結婚や名誉殺人についてイムカーンの研修を受けることが義務づけられた。

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500年の抑圧と闘った
ラモーナ

(メキシコ)

 「私たちは、生まれた時から死んでいるのです」。そう語るマヤ族の女性ラモーナにとって、抵抗運動への参加は生きるあかしだった。彼女は、今回のポスターにある「女性革命法」(1993)を起草した。
 ラモーナは1959年、グアテマラに近いメキシコ南部チアパスのジャングルに生まれた。マヤ族は、メキシコの中でも最も貧しく最も搾取されてきた。とくに女性は、毎朝3時に起きて、他の全員が眠るまで働かされた。
 ラモーナは、生きるために都会に出た。すると先住民であることで徹底してさげすまれた。3年もかけた芸術的作品の刺繍つきのブラウスは、ただ同然に買いたたかれた。
 1994年、メキシコ政府はNAFTA(北米自由貿易協定)を発効した。アメリカのとうもろこしがメキシコに流れ込む。NAFTAはチアパスへの死刑宣告のようなものだった。農民たちは、ゲリラ組織「サパティスタ民族解放軍」を結成して抵抗した。メキシコ政府は圧倒的武力による大虐殺で応えた。ラモーナの生まれ育った地域にはアルコール依存症の男性や暴力夫が多かった。女性が男性と話し合う慣習もなかった。でも彼女は粘り強く男性と対話し、民族解放軍を大きくした。ラモーナは司令官になった。

 その活動で生み出されたのが10カ条の「サパティスタ女性革命法」だ。革命闘争に参画する権利、働きに見合った報酬を受ける権利、教育を受ける権利、子どもを何人産むかを決める権利、暴力を受けない権利、組織の指導者となれる権利……まっとうな要求ばかりだ。
 「私たち女性は、ひどい搾取を受け、激しく抑圧されています。なぜこうなったかって? 女性たちは、500年も前から、意見を語ったり集会に参加したりする権利を持たなかったからです」。
 ラモーナの夢は、先住民として尊敬されること。彼女は2006年、たたかい半ばにして命を落としたが、「サパティスタ民族解放軍」は、今日も、武力を使わず、政府との粘り強い交渉によって権利を要求し続けている。インターネットを巧みに使い、世界にその自治政府の姿を知らせている。「ラジオ・サパティスタ」によると、自警団、病院、学校、司法などを独自に機能させ、運営には女性が多数入っている。

 1995年、国連世界女性会議で採択された北京行動綱領は、二重、三重の差別の中で生きる先住民女性の権利に初めて光をあてた。女性革命法から2年後のことだった。












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居並ぶ女性たちの両側に、
同法10カ条がスペイン語(左)と英語(右)で書かれている。

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世界を変えるのは
草の根運動 

(アメリカ)

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世界を変えられるのは、思いやりとやる気に満ちた 小さな市民組織である。
実際、それ以外のことなど一度もなかった。(三井訳)



 喫茶「フリーク」は、女たちになくてはならない空間だった。

 男性上司の無理解に悩む女たちが相談に来た。夫に殴られた女性が駆け込んできた。レズビアンたちの集いの場になった。議会に挑戦する女性候補者の選挙対策本部にもなった。ジュディ・シカゴ(フェミニスト・アートの旗手)の有名な作品「ディナーパーティ」を記録した監督ジュディ・アービングや、反戦運動家レベッカ・ジョンソンもやってきた。
 店主は和田明子さん。自宅を改装して喫茶店を開いたのは70年代初めで、いったん閉店した後に「女性の喫茶」として再開*した。以来4半世紀、コーヒー1杯で、女性の人権、食品安全、反原発などが語りあえるオアシスとなった。梅田から阪急宝塚線豊中駅で降りて5分ほど歩いた小路の角。ドアを開けると、ジョージア・オキーフ、韓国の女性会議、イプセンの女たちなどのポスターが迎えてくれた。

 なかでも、トイレの横に貼られていた黄色のポスター(今日の1枚)が私は好きだった。アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードの言葉が躍っていた。常連客の京都精華大学教員三木草子さんが、80年代初め、サンフランシスコの女の本屋「お婆ちゃんの知恵」で見つけた。女性運動、環境運動、平和運動が花開いた当時のアメリカ西海岸で、マーガレット・ミードのこの言葉は、少数派たちを大いに鼓舞した。「フリークにぴったり」と買ってきた。
 私は、20代の頃、マーガレット・ミードの『男性と女性』(田中寿美子訳)を読んで、男らしさ、女らしさが社会的につくられることを学んだ。そのなつかしいミードが、豊中市に勤務し始めた50代の私の前に現れた。

 2003年末、豊中市男女共同参画センター館長だった私は、男女平等嫌いの市議たちの圧力で「雇い止め」という名の首切りにあった。和田さんはただちに、三井館長の続投運動の先頭に立ってくれた。私は、豊中市などを相手どって首切りの不当性を大阪地裁に訴えた。そんな私を励ます会が開かれた場所、それが「フリーク」だった。
 7年がかりの裁判は最高裁までいって、私の勝訴が確定した。その間、ミードの言う「思いやりとやる気に満ちた小さな市民組織」が、私を支え続けてくれた。

*女性解放運動の喫茶「フリーク」は、その後2007年11月25日に閉店した。

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政治は男のものではない (フランス)

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 日本で女性が初めて投票できたのは1946年の衆院選だった。そのとき女性の衆院議員は466人中39人、8.4%だった。あれから68年たったというのに、衆院の女性議員は480人中39人で8.1%と減ってしまった。
 世界各国の議会でつくる列国議会同盟(IPU)の最新調査によると、この8.1%は189カ国中163位。世界には女性議員10%以下の国がまだ34カ国あって、日本はそのお仲間だ。

 フランスはEUの中で、20世紀まで女性政治参加後進国だった。その遅れをとりもどそうと、官民あげて運動を展開した。その時のポスターがこれだ。パリジェンヌが呼びかける。
「政治は男のものではない」
「あなたの地方で運動しよう」
 さらに1999年、憲法を改正して「当選者の数は男女同数に」という文言を第3条に入れた。続く4条には「政党および政治団体は、法律の定める条件において、3条の最後の段に述べられた原則の実施に貢献する」と明記した。
 次に2000年、「公選職への女性と男性の平等なアクセスを促進する法律」を制定して、政党に、候補者を男女半々とすることを義務づけた。これが「パリテ法」だ。

 パリテ法は、候補者を男女同数にしなければ、政党交付金を減額するのだ。減額率は、一方の性の候補者と他方の性の候補者との差の半分。たとえば、A党の候補者が男性だけだったとすると、A党への政党交付金は50%減額となる。効果はすぐに地方選で現れた。法の対象となった人口3500人以上の市で、女性議員が22%から47・5%に躍進した。ほぼ男女半々だ。
 しかし国政選挙では、女性擁立より政党交付金減額を選ぶ政党が多かった。そこで2007年、政党交付金の最高減額率を50%から75%に引き上げた。2012年、下院の女性は、19%から26.2%に増えた。

 政党交付金は、日本では選挙・政治活動費の大半を占める公金だ。国民1人250円を出し合って総額320億円! 世界最高額だという。政党本部に交付され(共産党を除く)、自民党145億、民主党 85億、公明党26億、みんなの党 18億、社民党5億…。どこかの党では、うちわやワインやSMバーに化けた可能性もある。

 もし日本がフランス並みの法律をつくったら、320億円のほとんどは、国庫に没収されるだろう。

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女の手で世界をつかもう!

(ノウハウ会議)


 女性差別の情報は、男たちの手でかき消されたり矮小化されたりするのが普通だ。それに疑問を持った女性運動家、司書、ジャーナリスト、研究者、先住民の権利運動家、情報センター職員たちが、国境を越えて叫んだ。「女性をとりまく現実をよく見えるようにしよう」「情報は力。世界中からアクセス可能な女性の情報サイトをつくろう」
 この国際的運動は、「ノウハウ会議」と名づけられた。

 萌芽は1995年9月4日に北京で開かれた国連世界女性会議にあった。世界中から5万人が集まった。私も地方紙と女性紙から特派員資格を得て参加した。最終日、「北京行動綱領」が採択された。女性差別撤廃のための最優先課題実行を、世界中の政府にせまった。その一つが「女性とメディア」だった。メディアにおける男女平等の推進と情報格差の撤廃がうたわれた。
 1998年、オランダのアムステルダムで、その第1回ノウハウ会議が開かれた。今回のポスター「女性の情報はどこにある?」は、その時に作られた。真っ暗闇から女性の顔が浮かび上がる。手には世界地図が描かれている。「女の手で世界をつかもう」と、叫んでいるかのようだ。

 次の開催はウガンダ。2002年のことだった。世界最貧国と呼ばれる国で準備に奔走したのは、首都カンパラに事務所を持つ国際女性運動組織「イシス」。
 ウガンダ大会で最も衝撃的だったのは「戦争と女性のドキュメント」だった。
女性たちの多くは、強奪や拷問のほかに、強姦、性暴力、性奴隷、強制結婚など女性ゆえの被害にあっていた。PTSDに苦しみ、性病、婦人病、全身の激痛、頭痛、性器や腹部や胸部の痛み、動悸、食欲喪失、潰瘍、精神病といった病魔に冒されていた。
 こうした女性に関する重大な事実がデ―タベースに蓄積され、ネットで公開された。
おかげで、今、日本にいる私も読むことができるのだ。








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民主主義vs黄金の夜明け

(ギリシャ)


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アテネ宣言

女性と男性の平等は、公式、非公式を問わず基本的な人権であり、
女性は人類の半分以上を占めており、
民主主義は、国の代表ならびに行政に同数の代表を必要とする。
女性は、
人類の潜在能力ならびに人類の技能の半分を代表しており、
意思決定においてその代表が少ないことは、
社会全体の損失である。
意思決定の場に女性の代表が少ないことは、
人類全体のニーズと利益に反する。         (後略)


 デモクラシー(民主主義)の語源はギリシャ語のデモクラティア。人民を表す「デモス」に権力を表す「クラティア」を組み合わせたものだ、とむかし習った。
 その民主主義発祥の地ギリシャのアテネで、1992年11月、「政治権力における女性」と題する欧州サミットの第1回目が開かれた。
 開催に尽力したのは、ギリシャの国会議員ヴァッソ・パパンドレウだ(元首相と同姓だが無関係)。1944年生まれの彼女は、軍事政権が崩壊した70年代に左翼政党「全ギリシャ社会主義運動PASOK」創設に関わった。80年代、政権を握ったPASOKは、女性差別撤廃条約を批准し、男女同一賃金、夫婦同等の権利、妊娠中絶合法化などを達成。改革真っ盛りの1985年、彼女は国会議員に初当選し、その後欧州委員会初の女性委員になる。欧州委員とはEUの大臣である。

 さて、そのアテネ会議では、女性が政界に少ないことを「民主主義の赤字」と呼び、男女同数(パリティ)にしなければ、赤字は解消されない、と合意された。
採択された「アテネ宣言」は、ヴァッソ・パパンドレウによって欧州全土の女性議員、全政府、女性団体に配布された。ポスターや葉書も作成された。
こうして「アテネ宣言」は、後の男女平等政策推進の起爆剤となった。1994年、EUに招待された私は、このポスターを持って帰国すると、和訳してあちこちに配った。

 その宣言から20年、とんでもないギリシャの映像が私のパソコンに届いた。
 2012年6月のギリシャ総選挙直前、各政党の国会議員7人が出演するTV番組「おはようギリシャ」でのこと。
 「急進左派連合」の女性議員がネオナチ政党「黄金の夜明け」の男性議員に向かって「あなたがたが当選したらギリシャは500年前に逆戻りします」と言った。するとブチ切れた「黄金の夜明け」議員が、手もとのコップの水を彼女の顔にぶっかけた。そして、制止しようとした共産党女性議員を、今度は何やら叫びながら平手で何発も殴った。
 こんな衝撃シーンの放映後だから、「黄金の夜明け」は当選しないだろうと私は思った。が、彼を含む18人が当選した。

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現代版ソールヴェイグ(ノルウェー)

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 このポスターは、今夏、オスロの国立劇場に貼りだされた「ペール・ギュント」のPR写真だ。
 「ペール・ギュント」は文豪イプセンがつくった1876年初演の演劇で、グリークの名曲にのせて世界中で上演されてきた。でも、劇の主役の1人ソールヴェイグは、自分勝手な男ぺール・ギュントをひたすら待ち続ける従順な女性で、私は、こんなノルウェー版「蝶々夫人」が好きになれなかった。その私に、オスロの国立劇場で上演される「ペール・ギュント」の無料切符が転がり込んだ。国立劇場の舞台にはテレビカメラが何台か置かれ、ディレクターに扮する女性が、観客の私たちに向かって何やら指示している。観客全員が、テレビのトークショーのギャラリーという設定だ。

 ペール・ギュントは50歳。世界を股にかけた冒険を終えて2014年の豊かなノルウェーに帰国した。そこは政治への怒りなどかけらもない社会だった。トークショーのスタジオに現れたペールは、自らの破天荒な過去を振り返る。イプセン劇でおなじみのトロール(ノルウェーのお化け)の世界…おや、おや、ノルウェー人なら一目でその人とわかる扮装で、トロールが首相(保守党党首)、財務大臣(進歩党党首)、大ホテルチェーンのオーナーに化けて出てくる。現役政治家を手玉にとった風刺劇に、客席はわれんばかりの拍手喝采。

 虚構と虚飾の中のただ一つの真実は、ソールヴェイグの存在だった。演じたのはポスターの右側にいる黒人女性アミーナ・サワリ。ソールヴェイグに黒い肌の女性が抜擢されたのは世界初だという。斬新なのは、現代のソールヴェイグが、恋人ペールの帰りを待ちわびていなかったこと。美しくて力強い歌声の彼女は、舞台から客席に降りると、「私の好きな道を行きます」と軽やかに消えていった。

 アミーナ・サワリはウガンダ生まれの移民で弱冠21歳。心理学を専攻する大学生で、シンガーソングライター、俳優、詩人。今夏の衝撃デビューは、反人種差別運動や女性解放運動と深く結びついていた。「クイーンダム」という団体で活動。彼女はノルウェー各地の学校を巡業しては子どもたちに作詞作曲の楽しさを教えてきた。
「クイーンダム」は、キングダム(王国)をもじった造語で、アフリカ系ノルウェー女性芸術家グループだ。「反逆精神と自尊心を大事にしてユーモアと詩と音楽で社会に影響を与えよう」をスローガンに、1999年オスロで結成された。根っこには「アフリカから来た売春婦の役をやってもらいたい」「あなたのノルウェー語は洗練されすぎて…少し粗野に話せないか」などとテレビ局に言われてきたアフリカ系女性たちの差別体験がある。つまり、アフリカ系女性の怒りが、彼女の才能を開花させたといえる。

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サッカー王国の闘女たち

(ブラジル)




 ワールドカップが始まり、世界の目がブラジルに注がれている。先日、オランダ対オーストラリアの試合があったのは南部の大都市ポルトアレグレ。ブラジルを代表する港町で、140万人が住む。
 このポスターは、そのポルトアレグレ市がつくった。2002年1月29、30日「参加型民主主義と女性」と題する国際会議。会場はポルトアレグレ市議会議事堂。ポスターの真ん中のマイクの影が“メスマーク”だから、女性の声を届けるための会議だろうと察しはつく。ワールドカップの日本のホームページで女性が登場する欄は、「美人サポーター」と題されているが、この国を一皮むくと、闘う女性が現れるのである。
 その代表格は、2011年に大統領に就任したジルマ・ヴァナ・ルセーフ(1947年生)だろう。彼女は、軍政下にあった1960年代には、非合法左翼ゲリラ組織の一員だった。秘密警察に2度も逮捕され、獄中で鞭や電気ショックによる拷問を受けた。20代半ばで出獄した彼女は、進歩的土地柄のポルトアレグレ市に移り住んだ。政党活動が合法化されるや、ブラジル労働党に入党。。その一方で、ポルトアレグレ市財務局を皮切りに役人の世界を渡り歩き、州の要職に上り詰めた。
 2002年にルーラ大統領(労働者党)が登場すると、その右腕として辣腕をふるう。そして、後継者として大統領選に立候補して初当選。大統領就任後は、閣僚の3分の1を女性にするなど、マッチョ国ブラジルの変革に着手した。

 ポルトアレグレ市は市民参加型予算編成をする先駆的自治体として有名なのである。市民が予算配分に直接関与する。これを連帯経済というのだそうだ。その連帯経済の支柱のひとつは、「地方政府のあらゆる分野に女性の参加を強めよう」だ。会議はそのために開かれた。
 ブラジルは、サッカーだけの国ではない。すばらしい!








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〝民主主義の赤字〟をどうする   (EU)

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  5月27日、私のメールボックスは、EU議会議員選挙のニュースであふれた。
結果は、極右政党やEU反対党が議席を伸ばしたものの、中道右派の「ヨーロッパ人民党」と、中道左派の「社会民主進歩同盟」で過半数を占めた。
 ところで女性議員は?  残念ながら27日時点では男女比が出ない。改選前は全議員の35%だった。
EU加盟国全体を網羅した女性団体が、「50%・50%」と名づけた運動をネットで繰り広げた。EU議会自身も、全加盟国の政党規則にクオータ制があるかどうかを調べて公表した。
EU議会の選挙は、1979年から5年ごとに行なわれ、今回は8回目だ。全751の議席は、加盟28カ国の有権者が選挙で選ぶ。各国の議席数は人口比を基本にすえるが、人口の少ない国には下駄をはかせる。選挙は、比例代表制である。
 「おっ!」と思ったのは、スウェーデンで、フェミニスト党(Feminist Initiative)が1人当選させたこと。フェミニスト党初のEU議員になったのはソラヤ・ポスト。ロマ人の人権活動家で、ロマ人の声を政策に反映させるために作られた放送界や政府の審議会の委員でもあった。2013年に入党したばかりだが、党の候補者リストのトップに登載され、当選をはたした。彼女は言う。
「ロマ人は欧州に1500万人もいますが、どこでも迫害されています。ロマ人こそ欧州最大の被差別人種です。私の祖先は何百年も前からスウェーデンに住んでいました。母は私を産んだ後、不妊手術をさせられました。ロマ人ゆえに、です。スウェーデンに生まれ育った私は、今も2級市民です。ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーでのロマ人排斥はさらにひどいものです。最近のナチズムの台頭、怖いですね」彼女が当選できたのは、比例代表制選挙の賜物である。
 今回のポスターは、1994年春、EU議会選挙を取材した時にもらった。EUのシンボル12個の星がちりばめられた青地をバックに、女と男が握手している。男女不平等は“民主主義の赤字”。その赤字解消がEU議会選挙のキャンペーンだった。
 その時、当選した女性は、まだ全体の26%。でも日本人の私は「4人に1人」に感動した。

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後戻りのない道

(アフガニスタン)



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 1人の女性の顔が描かれた旗。握り拳を天に突き上げる女性たち。その背後の真っ赤な色は太陽か火炎か。いや血しぶきのようでもある。旗の女性の名はミーナ(1956~1987)。アフガニスタン女性解放運動の象徴だ。
 ミーナは、1977年、カブール大学在学中に女性解放団体RAWAを創設。「女性の権利、民主主義、自由」の3つのモットーを掲げ、戦争とイスラム原理主義に反対し、男女平等と社会正義の祖国をつくろうとした。軍事支配していたソ連とアフガニスタン政府を公然と批判し、デモを組織し、数勉強会を企画し、同志を増やした。パキスタンの難民キャンプにも足を運び、病院や孤児院や識字学校を設立。、難民女性たちが働けるよう、看護などの職業訓練校もつくった。雑誌『女性のメッセージ』を創刊し、女性の意識啓発にも打ち込んだ。
 イスラム原理主義は女性の人権を認めない。女性が外で仕事をすることは厳禁。女性に教育を施す活
動などは最大の攻撃目標だ。が、ミーナは脅迫や嫌がらせにも、ひるまなかった。そしてRAWA創設10年後の1987年、何者かに誘拐され殺害された。享年30歳。

 ミーナがつくったといわれる詩を、私流に訳してみた。

  私は目覚めた女
  私は焼き殺された子どもたちの灰が飛ぶ嵐
  私は兄弟姉妹が流した血であふれる小川
  崩れおちたわが村が、敵への憤怒をかきたて
  祖国の怒りは私を奮い立たせる
  ああ同胞よ、もう私を臆病者と見てはいけない
  私の声は幾千もの女たちの怒りの声
  私の拳は幾千もの友の拳
  隷従者の苦しみを解消するために
  私は目覚めた女
  私は歩む道を見つけた
  後戻りのない道を

 アフガニスタンでは、この4月、大統領選と地方選挙があった。投票した700万人の3分の1が女性だった、と報道された。ミーナが命がけで播いた種は確実に育っている。
 日本でも、映像ジャーナリスト川崎けい子さんが「RAWAと連帯する会」を結成し、支援を続ける。

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グローバル化より女の権利だ!

(マレーシア)

 「女たちよ、グローバル化に反対し、女性の権利を主張しよう!」
 ピンクの下地に、さみどり色の力強い文字が浮かぶポスターは、APEC(アジア太平洋経済協力)に反対するための国際女性会議を呼びかけたものだ。APECは、アジア太平洋地域の21の国や地域で構成され、貿易や投資の自由化をすすめようという政府間組織で、加盟国が持ち回りで、年1回会議を開く。
 グローバル化は、繁栄する都会と貧しい田舎の格差を一層広げる。農民はより貧しくなり、少女たちが都会に売られる。企業の使い捨て労働者にされる。個人宅の住み込み召使としてこき使われる。はては観光客相手の売春……。
 マレーシアは、マレー人、中国人、インド人による多民族国家だ。多数派のイスラム教徒に、仏教、キリスト教、ヒンズー教が混在する。家父長制の伝統は強固だ。小選挙区制のためだろう、女性の政治参加は日本と同様に低迷している。しかも政党は民族ごとに分かれていて、普通は民族代表が候補者になる。だから候補者の多くは男性だ。
 そんなマレーシア社会で、1990年代後半、女たちが動き出した。女性運動家たちは、1995年北京の国連世界女性会議で強調された「女性差別撤廃条約順守」を盾に、女性を差別する国内法の改正に乗り出したのだ。当然、流れは「国会に女性を」となった。女性問題は社会・政治・経済の問題である。女性が国会にいない限り、女性問題が政策化されることはない。だから女性議員を増やそう、と狼煙をあげた。
翌年の国会議員選挙に女性運動家が無所属で立候補した。小選挙区制の壁に阻まれはしたものの、獲得した2万6000票は、女たちを勇気づけた。
 マレーシアの女たちがAPECに反対する国際会議を開いたのは、この年だった。翌年からAPECに女性の声が反映されるようになった。
 2010年のAPECは、日本で開催された。ホスト役の中山義活経済産業省政務官は、「日本人女性は家庭で働くことを喜びとしているし、それが文化になっている」と発言した。世界21カ国から集まった女性企業家330人を前にしての妄言だった。








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挫けるな!白いリボンの女たち

(南アフリカ)



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 地はつやつや光る黒、中央に大きな白いリボン。
白いリボンは、女性への暴力に反対する運動のシンボルマークだ。これなら、字の読めない女たちにもよくわかる。
 南アのマンデラ元大統領が死去した昨年、世界は、アパルトヘイト撤廃にかけた彼の一生を報道した。
マンデラが大統領に選ばれた翌1995年、国連の女性差別撤廃条約が批准された。新憲法が制定され法文には、黒人差別撤廃だけでなく、女性差別撤廃の精神も強調された。
 マンデラが代表する政党「アフリカ民族同盟」(ANC)は、党の綱領に30%クオータ制を導入。
これが引き金となって、南アの女性国会議員の割合は、1994年27・75%、2009年は42・3%にまで到達し、今や、国会に女性が占める率は、世界第8位だ。
 女性への暴力をやめさせるキャンペーンが繰り広げられ、1999年、「家庭内暴力法」として実をむすんだ。しかし、法はできたものの、変化の歩みは鈍かった。ケープタウンの旧黒人居住区は失業率は60%以上で、貧困、強姦、麻薬、暴力、エイズが猛威をふるい、飲酒と暴力におぼれた男性が多い中、大家族の日々の糧の調達は、女性の肩にズシリとかかる。それなら、女性の地位が高いのかと言えば、違う。
「女性が殴られたり、強姦されたりしない時は1分間もない」と言われるほど、女性への乱暴狼藉が蔓延している(ドイツ誌「シュピーゲル」)。はびこる因習や迷信は、容易には消えない。強姦をした側の男性は、家族内でも地域でも大きな顔で振る舞い、犠牲者の女性たちは村八分にあう。被害を警察に訴える女性も少ない。警察に訴えても、起訴にいたらないことが多い。
 だからこそ、白いリボンキャンペーンは続く。
2009年12月には、何百人もの白装束の女性たちが、ケープタウンのショッピングモールの駐車場に集まって、人間の鎖で巨大な白いリボンをつくった。その横に、殴打されて腫れあがった女性の顔の大写しが掲げられた。主催したのは、本ポスターをつくった「女性への暴力ウエスタン・ケープ・ネットワーク」だ。
 世界で強姦事件がもっとも多い国は、南アなのだそうだ。くじけるな、南アの女たち!

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国を救ったのはオンナたち

(アイスランド)

 今から20年ほど前の1994年5月30日、「レイキャビクに女性市長誕生」のニュースを知った。当時のアイスランドは、大統領、最高裁長官、国会議長が女性だった。首都のシンボルまで女性になった。しかも新市長は“女性だけの政党”の政治家で、長期保守市政を破ったという。
 アイスランドの女性党は左派で、正式名は「女性リスト」、フェミニスト党と呼ぶ人もいる。新市長インゲビョルゲ・ギスラドッティルは、40歳、2児の母でフェミニスト誌『ベラ』編集者。市議の後、1991年、国会議員に初当選。その国政選挙で使われたポスターが事務所の壁に貼られていた。今日のポスターは、新市長から直接いただいた記念すべき1枚だ。彼女の顔が全候補者36人のトップにある。
「70年代、私たちは女性の権利を求め、議会の外で運動を続けました。80年代、国や地方の議会に入り込み、政策に女性の声を反映させました。90年代には行政権力を獲得し始めた。今の私のポストは、女性運動が新しいステージに入ったことの証明です」。
 10年ほど前に創設された女性だけの政治集団が、どうして、保守党の現職市長(男)を破ることができたのか。アイスランドは、他の北欧諸国と同様に比例代表制だ。市長は、市議会議員選挙で過半数をとった党派から選ばれる。野党4党は選挙前に「野党が勝てば彼女を市長にする」と合意していたのだという。「レイキャビク市は、60年間も保守党の独壇場。政治を浄化してくれるのは女性党の女性政治家たちだ、と期待されたのです」。
 女性党は1998年、他政党と社会民主同盟を創設して解散した。これに賛成できない党員たちは緑の党に流れた。2008年の世界金融危機で、当時の首相は福祉予算削減を表明。失業保険や年金を扱う社会問題大臣ヨハンナ・シグルザルドッティル(女)は、これに強く抵抗して国民の喝さいを浴びた。首相は辞任。シグルザルドッティル社会問題大臣が初の女性首相に就任した。
 2010年1月、政府は銀行への公的資金投入を提案した。国民は、税金で銀行を救済することに猛反発。3月、国民投票で、公的資金投入を圧倒的票差で否決した。
 「経済危機を招いた一因は男性型経営」という考えが浸透し、「男たちがめちゃめちゃにし、女たちが片づける」といわれた。








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「男の連帯」に一太刀!

(北欧理事会)



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 1994年5月、北欧フィンランドの国会を訪問したとき、このポスターを入手した。フィンランド国会には、超党派の国会議員で作る「男女平等審議会」という非公式の会があり、その会長テゥーラ・クィティネン国会議員が、別れ際、お土産にと私に贈ってくれたのだ。「私たち男女平等審議会は、月に2回集まって女性に共通した問題にかかわる議員提案の法律の草案をつくったりします。これは、フィンランドも加盟している北欧理事会のポスターです。昨年、男女差別賃金をなくそうという大問題をテーマに話し合いがありましたが、その時に使われたのが、このポスターなのです」。北欧理事会とは、北欧諸国が、団結をめざして閣僚レベルで協議会を開き、政策のすりあわせをする国際機関だ。国家主導型のASEANとは異なり、地域に根付いた民間協力を国家が後追いする形で作られたという。その北欧理事会の主要政策のひとつに、「男女平等推進」がある。

 ポスターに描かれている3人に注目してみよう。
右の男性は、管理職らしい。彼は中央の若い男性の胸元を見て、「君も同じネクタイだね」と、うれしさを爆発させる。ブラザーフッド、そう、〝男同士の連帯〞というヤツだ。でも、左の女性は、ネクタイなどしていない。胸元のネックレスに手をあてて、疎外感を隠しきれない表情だ。

 男性と女性は、同じ種類の仕事を同じような責任感を持ってやっても、その評価は同じではない。それは、評価する側の管理職(多くは男性上司だが)が、自分と同じ性ではないことに起因することが多い。つい、「女は出産する」「女はすぐ辞める」「女は力が弱い」「女は家庭に気をとられる」などと思ってしまうのだ。ポスターのイラストは、こんな神話に惑わされている男性上司を、一瞬の表情で描いている。
 女性差別賃金撤廃をめざして共通戦略を協議しつづける北欧諸国では、女性の賃金は、男性の8割ほどにまで上がった。一方、日本は、5~6割程度にすぎない。

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女が一番!

(イタリア)

 ローマはどこを歩いても、2000年以上も昔の遺跡が目に飛び込んでくる。街全体が考古学博物館そのものだ。そんな世界遺産の景観を損なわないように、街のポスターはかならず、決められた公共掲示板に貼られている。その掲示板「SPQR(Senatus Populusque Romanu元老院と市民の皆さん)」は古代ローマ時代から使われているのだという。
 その1枚に、私の目は釘付けになった。「女が一番!」と書いてあるではないか。「女が一番」にあたるイタリア語は「プリモ、ドンナPrimo, Donna」。イタリア語に通じていない私にも強烈なインパクトで迫ってくる。頭文字PとDの2文字が大きな赤で躍る。
 PDには、もうひとつ意味がある。私がローマに滞在した2007年7月、イタリア政界に出現しようとしていたのが旧イタリア共産党の流れをくむ新左派勢力「民主党」、イタリア語でパルティート・デモクラティコPartito Democratico。その略称がPDなのだ。新「民主党」PDは、同年10月14日、ミラノで結成大会を開いて、正式に誕生。
 このポスターは、新党PDの政治集会への参加を、女性たちに呼びかけたものだ。新党PDの結成プロセスにおいて、「女が一番」にあたるPDにかけて、女性の力を前面に出そうという意図が込められている。
 「女が一番!」のポスターに近づいてみると、小さな文字でこう書かれていた。
「世界を変えるためには、そこに参加しなければならない――ティーナ・アンセルミ」。
ティーナ・アンセルミはベネト州生まれ。17歳のとき、パルチザンの友人たちがファシストに吊るし首にされたのを見て、パルチザンに身を投じ、ナチスやファシストと戦った女性だ。戦後、キリスト教民主党から国会議員に当選し、女性としては初めての大臣に。議会では、男女平等のための法の制定に命を賭けた。現在86歳。





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 アタシ、指揮者になるの!

(スペイン



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 標語は「彼女の教育に限界なんてありません、彼女こそ21世紀そのものです」
 プラスチックの空き箱を逆さにした急ごしらえの指揮台で、女の子は「アタシ、大きくなったら指揮者になるの」と叫んでいるようだ。
 このポスターを見た私の脳裏に、1990年代のノルウェーの光景が浮かんだ。

「ぼく、大きくなったら首相になるんだ」「あら無理よ、だってあなた男の子でしょ」
 ……というのは、ノルウェー初の女性首相グロ・H・ブルントラントが就任中の傑作小話である。
 1990年頃、ブルントラントが党首をつとめる労働党は、この小話のセリフをそのまま絵葉書にした。女性の政治進出に拍車をかけるためのPRだった。その後、ノルウェーでは、男性の首相が続いたものの、閣僚の半数を女性が占めるのが当たり前になった。政権交替があろうと、「男女半々内閣」は変わらないまま、現在に至っている。

 1975年、フランコの死によって、独裁政権が崩壊した。百花がいっせいに咲き始めるがごとく、さまざまな女性運動が始まった。おりしもフェミニズムの嵐が世界のあちこちで吹き荒れた頃だ。スペインの女性たちも「妊娠中絶の自由を」「離婚の自由を」「教育の場や働く場での女性差別撤廃を」と書いた横断幕を高々と掲げて、街に繰り出した。
 1980年、社会労働党政権が誕生した。1983年、政府は女性差別撤廃と男女平等を推進するための政府機関「女性研究所」を創設した。女性の健康を促進し、働く場を広げるための、啓発・調査・助成の拠点であった。メディアにおいて女性がどう表現されているかに的が絞られ、性差別に満ちた表現がやり玉にあげられた。
 その「女性研究所」が力を込めて発信した1枚が、女の子が指揮棒を振るう、このポスターだった。

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レジスタンスに命をかけた女達

(オーストリア)

 ウィーン市女性局は、まるで宮殿のような建物の一角にあった。高い天井の部屋で私を迎えた職員は「ええ、この建物、ウィーンの街並み、どれも私たちの誇りです」と言った。「女性局は1992年5月に誕生しました。今や、職員は9人から30人に増え、予算も3倍です。夫の暴力を受けた女性のホットラインを24時間対応にするなど、女性政策は充実してきています」。訪れたのは2003年2月。女性局創設10周年記念の年だった。
 「女性を目立たせよう」というキャッチフレーズのもと、様々なプロジェクトが進められていた。そのひとつが、ポスター「ウイーンのレジスタンス闘士たち」だ。1938年、オーストリアはヒトラーのドイツに併合された。ヒトラーは、ユダヤ人はもちろん、共産主義者、社会民主主義者、自由主義者、女性解放運動家を次々に逮捕した。
 戦後、レジスタンス運動の掘り起こしが始まり、無数の本や映画が世に現れた。しかし女性といえば、レジスタンス闘士の男を陰で支えた妻、母、娘役ばかり。
 そこで女性局は「女性を目立たせよう」運動の一環として、レジスタンスのウィーン女性たちを世に出す企画をたてた。何種類ものポスターが作られた。女性局職員は、その1枚を指さしてこう説明した。
 「当時の女たちの、差別や不正を許さない不屈の魂は、現代の女の子たちを勇気づけます。女たちよ、社会変革に立ち上がろう、と鼓舞します。勇気は男性の専売特許ではありません」。黒枠に女性たちの顔が掲げられている。何十人かに見えるが、よく見ると5人の顔が繰り返し使われている。





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いかれた女よ、臆病者よ、かわいこちゃんよ、おしゃべり女よ、集まれ!

(ドイツ)



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ドイツの新首都ベルリンに、女性が女性の自立のためにつくった小さな街ができたらしい――欧州連合EUからのニュースで、それを知った私は、2004年夏、取材に出かけた。

 旧東ベルリン地区のローゼンタール広場近くに、その「女の街」はあった。中庭を囲むように6棟のビルが建てられていた。旧東ドイツ時代には、化粧品会社の工場だったという。その古いビルを、1992年に女性たちが買い取った。化学薬品で汚染されていた内部を除染し、快適な空間に作り替えた。総改装費は約25億円(186万ユーロ)だった。
案内された事務室の壁に貼ってあったのが、このポスターだ。
見るからに個性の強そうな女性ばかり。写真の上に書かれたドイツ語は、左から「バカ女」「泣き虫女」「なめたくなるほど可愛い女」「口軽女」という意味で、どれも女性に投げつけられてきた決まり文句だ。
 そして、それぞれの形容詞とは似ても似つかぬタイプの女たちが、「だから、どうだっていうのよ」とすごみのある眼つきでじっとこちらを睨む。
案内してくれた女性が言った。
「女性なら誰でも、ここに来れば仕事にありつける、という意味が込められています。ええ、もちろんフェミニストの目で、女性蔑視の言葉を逆手にとって、皮肉っているのですよ」

 この街の母体となったのは「女性生活協同組合」だった。街づくりの推進者の1人、カティエ・フォン・バイ博士によると、働く女性同士が支援しあう協同組合がドイツにできたのは19世紀だという。その長い伝統の延長線上で、ある一石が投じられた。女性解放運動が盛んだった80年代に、西ベルリン自由大学の女子大生が「女性が起業をして成功するには女性のためのビルを建てることだ」という論文を発表し、これが注目を集めた。そんなもろもろの機運がブレンドされて、「女の街」ができた。私が訪ねた時には60社がテナントとして入っていた。
 2部屋約50㎡の場合、家賃は光熱費込みで月4万円と格安だ。それに、保育園、気分転換のできる広めの中庭、お茶や軽食をつくって食べられる共有のダイニングキッチン、おいしいレストランなど、働く女性なら誰でものどから手が出るほどほしいインフラが整っている。
 大きな特典は、女性が経営者となる際の障害を乗り越えるためのノウハウを教えてもらえること。その拠点が「女性生活協同組合事務局」で、街の一角にあって、銀行からの借金のしかたや、税金対策や、営業宣伝活動の秘訣などを指南している。このような条件を整えたうえ、太陽光発電、雨水のトイレ用水装置など、建物は環境にやさしく造られている。

 フェミニズムとエコロジーを合体させたこのプロジェクトは評判を呼び、EU、ドイツ連邦政府、ベルリン市(州)の3者が公的補助金を出すようになった。
「女の街」は、2011年にドイツ社民党(SPD)から、そして2013年にはベルリン市から、表彰された。

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賃上げには髭(ひげ)だ

(スウェーデン)

 世界一の男女平等はどこにある? スウェーデンか? ノルウェーか? 長年抜きつ抜かれつの両国だが、今回はスウェーデンの話。スウェーデンの現内閣は24人のうち13人、国会議員349人のうち156人が女性である。昨年、英誌『エコノミスト』が発表した「女性経済指数」で世界一に輝いたのはスウェーデンだった。同誌は、政策・慣行、金融へのアクセス、教育訓練、法的社会的地位、実業界の環境の項目で、男女平等がどれだけ達成されているかを調査した。
 しかし、この地位は、スウェーデンの女性たちの「絶え間ないたたかい」がなければ、ありえなかった。そのたたかいぶりを示す1枚が、この真っ赤なポスターである。現政権は中道右派政権だが、このポスターが作られた当時は社会民主党政権で、制作者は同党女性部(愛称S・ウーマン)である。1999年、S・ウーマンは「政治権力も賃金も男女平等に均等配分せよ」という目標をたてた。現実の賃金格差は「男性100に対して女性80」。この壁をぶち破ろうというのだ。ところが、髭(ひげ)の主は言う。「ごめん、君の出番はもうないんだよ」それまで長年、女性たちは、「次は女の番」のスローガンを掲げて、男女平等の運動をしてきた。なのに、これが、私たち女性への男性の回答なのか!
 こうなったら、残された方法はひとつ。女が男になるのだ。そうだ、髭(ひげ)をつけよう!このちょっとユーモラスで激しいたたかいは、「髭キャンペーン」と名づけられた。ポスターの一番上にある大きなスウェーデン語Nödlösning は、てっとり早い方法とか、一時しのぎの方法とかいう意味だ。その下には黒い口髭がある。小さな字は「労使交渉のとき、この髭をはぎとって口に貼りなさい」と言っている。「男女が完全に平等になるまで、何年待てばいいの?
 私たちはもう待てない。親父社会をぶっとばせ。権力と賃金を男女平等に分け合うまで決してあきらめない」ポスターは、最後にこう会員拡大を呼びかけることを忘れない。「本当に解決していくためには、S・ウーマン(社会民主党女性部)へ」。ポスターに記されたS・ウーマンのホームページをクリックしてみた。
 S・ウーマン(社会民主党女性部)は、1920年、120人の女性たちで創設された。スウェーデンと社会民主党を男女平等にするため、手をつなぎあってたたかうフェミニスト、と自称する。300の地方組織を持ち、2年に1回の大会で活動方針を決める。過去、妊娠中絶の合法化、核武装廃絶、労働・家庭・税制における男女平等を勝ち取ってきた。現在は、正規労働に女性を増やすことや、男女平等賃金の実現が、運動の焦点になっている。このポスターは色が勝負だ。





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 人形を抱け!(オランダ



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 遠くから見ると、宇宙服を着た女性のようにも見えが、違う。これは、いわゆるダッチ・ワイフと呼ばれるゴム人形だ。男性のセックス処理のために作られた女性の等身大サイズの人形なのである。
 人口の口、人口の胸、人口の性器。ひとつ間違えばグロテスクな画像になりかねないポスターだが、実は1991年、性暴力根絶を訴えるために男たちの手で作られたところが面白い。制作者は「女性への性暴力に反対する男性連合」。1983年、オランダのアムステルダムで創設された男性の運動グループだ。女性への性暴力を平気で続ける男子や男性の意識を、男性同士の対話によって変革しようという目的で活動を開始した。

 ダッチ・ワイフは、その昔、世界中の男たちが、戦場や航海、はたまた日本では初の南極越冬隊にも連れて行ったと言われている「セックスのための人形」だ。18世紀当時、オランダと覇権争いをしていたイギリスが、オランダを蔑んでこんな名前をつけたのだとか。照明の効果で目のあたりが暗いために、赤い口だけが強調されている。髪の毛を逆立て、両手を上げた格好の人形は、うめき声をあげているようでもあるし、驚いているようでもある。右下をよく見ると、洗濯バサミで膝のあたりがつままれている。このゴム人形は洗濯された後に、ひもに干されているのだろう。
 オランダ語で書かれた真っ赤なカード5枚は、アングリ開いた赤い口から発する人形の声だ。言葉がブツブツ切れて、壊れた機械音のようだ。「ガールフレンド」「ほしいなら」「いつでも」「あなたのために」「いかが?」最後に、「あー、男よ、人形を抱け!」と叫ぶ。

 ポスターの最下には、「女性への性暴力に反対する男性連合」の理念がまとめられている。「双方がセックスしたいと思ったとき初めて楽しいセックスができます。男の子や男性の多くは、そのことがよくわかっているし、そういうセックスをしたいのです。でも、中にはパートナーがいやだと言っているのに、セックスをしたがる男の子や男性がいます。あげくのはてに、暴力を使ってセックスしようとする人さえいます。無理矢理セックスすることは強姦です。たとえ相手が妻であろうと、恋人であろうと。それがわからないなら、女性と人形の違いについて理解しよう。この問題について話しませんか。電話XXX―XXXX」オランダは、1983年、性暴力に立ち向かうために憲法に次の2条を追加した。「10条 すべての人間は、そのプライバシーを尊重される権利を有する」「11条 すべての人間は、その身体を侵害されない権利を有する」。その後、女性たちによる女性の駆け込み施設や、性暴力撤廃に関する調査活動・運動が政府の奨励策によって、さらに活発になった。当時の歴史的1枚がこれである。

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娼婦でも女中でもない!(フランス)

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 昂然( こうぜん) と顔を上げ女たちは発言する―― 「私たちは、娼婦でも女中でもない」。白黒写真にショッキングピンクのフランス語が浮かび上がる。Putes は娼婦。Soumisesは召使、転じて主婦という意味にも使われる。この「娼婦か主婦か」は、その昔、女性の立場を表すフランスの決まり文句だった。

 ポスターでこちらを見すえているのは、ほぼ全員アジアアフリカ系の女たちだ。彼女たちは、移民としてやってきたか、または移民の家庭に生まれ育ったフランス人だ。多くは、清掃、ウエイトレスなど人が敬遠する低賃金で不安定な労働に従事し、フランス社会を支えてきた。このポスターは2001年に制作された。制作者は「女性ゲットーに反対し平等を求める女性の行進」という女性解放運動団体だ。女性ゲットーとは、女性が多い労働現場をさす。男性中心の文化や固定観念を否定し、個性あふれるひとりの人間
としてフランスに生きる移民女性を世に出そう、という運動である。
 ポスターのスローガン「娼婦でも女中でもない」は、運動のプロジェクト名ともなっている。プロジェクトは、1989年、フランスの移民女性たちの手で始まった。3月8日の国際女性デーには、スローガン「娼婦でも女中でもない」を掲げて、路上を行進するのだという。フランスで、今もっとも元気な女性運動のひとつだそうだ。私がこのポスターを入手したのは、2003年夏だった。勤務していた豊中市男女共同参画推進センター「すてっぷ」で開催中の「北欧・EUポスター展」に、フランスのポスターを加えようと休暇を利用して訪仏した。フランスの女性解放を象徴するようなポスターが何点か手にはいった。そのうちの1枚が、これだった。強烈なメッセージに心を打たれた。縦60センチ、横1メートルの大きさにも圧倒された。

 私は、後に、男女平等を嫌う政治勢力の圧力で「すてっぷ」を追われることになるのだが、私が「すてっぷ」を去る直前まで飾られていたポスターが、この「娼婦でも女中でもない」なのである。今は、我が家の階段の上部に飾られ、玄関に入って来た人を見すえている。

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仕事は男の子選びと同じよ

(ベルギ―)

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 新作ファッションの宣伝と見まがう、このポスターを見たのは、1994年春、ベルギーの首都ブラッセルだった。黒のジャケットに白のミニスカート、黒タイツの若い女性が、腕組みしてこちらを見据えている。バックはすみれ色だ。キャッチフレーズは、「仕事は男の子選びと同じよ。一番先に出会ったからって、それに決めちゃダメ」。

 ポスターを見せてくれたのは、ベルギーの雇用・平等省大臣の政策秘書ミケ・ドゥヴリガー。大臣のフロアの端にある12畳ほどの独立した部屋だった。デスクの横の壁には女性問題の啓発キャンペーン用ポスターがびっしりと張ってあった。
 「現在、ベルギー雇用・平等省が取り組む課題は3つ。女性をあらゆる労働分野に進出させる政策、性暴力を根絶させる政策、方針決定への女性の数を増やす政策です」。

 第一課題の「あらゆる労働への女性の参加」を進めるために「アファーマティブ・アクション法」がある。その法によって、女性の少ない分野に優先的に女性を採用、昇進させるための実行計画の提出が、すべての公共機関に義務づけられている。たとえば5年間で、国レベルの警察官の25%を女性にしなければならなくなった。そのため、採用基準の「身長170㌢以上」などが撤廃され、男性に有利だった体力テストの中身も変わった。
  一方、女性の側の意識変革も促す。「若い女性たちに、ありきたりの仕事にとびつかないように、って呼びかけるポスターがこれです」。ポスターと同じ写真を表紙にしたパンフをめくってみた。そこには、機械工、電気技師、産業工学エンジニア、土木専門家…といった職業に就いている若い女性たちが満載されていて、彼女たちは口々に、こういう仕事がいかに楽しいかを語っていた。男性識者に言わせないところが、いい。


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ヨーロッパをもっと美しく

(デンマーク)

 デンマークの女性の政治参加は、20世紀初頭から世界のトップレベルだ。いま、国会議員に女性が占める議席は40%近い。デンマークから出ている欧州議会議員は、女性が45%を超えた。
 このポスターは、1994年デンマークを訪れたときに入手した。ヨーロッパは5年に1度の欧州議会選挙を控えていた。欧州議会は、欧州連合(EU)の諮問・監査機関。議員は加盟国別に選挙で選ばれる。私は、デンマーク男女平等委員会委員長に会うため、コペンハーゲンの同委員会を訪問した。その屋の正面にドーンとはってあったのが、この「ヨーロッパをもっと美しく」だ。
 ポスターの上には、生真面目な顔をした背広姿の男性が、まるで兵隊のように整然と立っている。下には、個性あふれるスタイルで、普段着の男女がにこやかに肩を組んでいる。その真ん中に、デンマーク語で「ヨーロッパをもっと美しく」と書かれている。
 言葉だけだと、環境保護キャンペーンのポスターかと思ってしまう。ところが、これは欧州議会に女性議員を増やすためのキャンペーンなのだという。ホルムズゴー委員長(女性)は、次のように説明した。
 「この『美しく』にあたるデンマーク語には、『平等』という意味もあります。ですから、このキャッチコピーは、『ヨーロッパをもっと平等に』という意味でもあるのです。欧州議会に多くの女性を代表に送り込みたい。私たちが作ったのですが、気に入ってます」。
「美しく」が「平等に」と同じ言葉だなんて、素敵!

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愛は盲目(ノルウェー)

1愛は盲目(モノクロだがとりあえず入れときます).tif




 身近にいる男性が女性に暴力をふるう事件が後を絶たない。時に、その暴力は、精神に異常をきたすほどの障がいを与え、時に、死に至らしめる。しかし、家庭での女性への暴力は、長い間、社会的に封印されてきた。
 それに「ノ―」と言ったのは女性たちだ。このポスターは、ノルウェーにおける女性への暴力を撤廃する運動の一環で作られた。前面に大きく白く浮かび上がるのは、女性の左腕だ。鳥肌がたっている。その腕と、文字の背後に見えるのは女性の顔だ。まぶたの下の黒い傷跡、薄汚れた髪の毛から、女性は、殴打され、辱められていることがわかる。上にあげた腕の手首は見えない。両手首を縛られているのだろうか。見る者に暴力の恐怖を与えずにはおかない。
 真ん中に書かれているノルウェー語は、「愛は盲目」。1990年代末、ノルウェーのクライシスセンターが作成した「目を見開けキャンペーン」のなかの1枚だ。盲目ではいけない、目を開けと、叫んでいる。
 クライシスセンターとは、暴力を受けた女性たちの避難所で、日本でいうDVシェルターをさす。ノルウェーにおける女性の避難所の歴史は、ヨーロッパでは英国に次いで古い。
 1976年、ブラッセルで開かれた「女性への犯罪」の国際会議に女性運動家たちが参加した。帰国後、彼女たちは、暴力を受けた女性のための相談電話をポケットマネーで新設した。毎晩、電話口には女性の悲鳴が届いた。1年間の全記録をもとに、報告書「女性への暴力の実態」を作成し、「女性への暴力は社会問題である」と訴えた。